「障害者なんていなくなればいい」と言った植松聖容疑者を、マスコミは偏った異常な思想の暴走と断じて犯行の凶悪性にのみ焦点を当てている。だが、犯行の動機や背景といった本質は意図的に報道されていないようにも思える。罪を糾弾するだけでなく、行為の分析や予防策などについてもしっかり考えてもらいたい。
今回の犯行は極右の確信犯によるヘイトクライムであり、国家をも揺るがしかねないテロ行為である。だが、テロ行為ではあるが無差別殺人ではない。明確な目的を持ち特定の層をターゲットにした犯行であり、動機の解明は容易だ。それはおそらく、「健常者の自分が大変な思いをして働いているのに、障害者は手厚く保護されていて許せない」といったものだろう。これが理解できないという人は想像力が足りない。何故犯人がそのような考えに至ったのかについては、犯罪行為を2つのタイプに分けて分析してみる。
全ての犯罪は、弱者の犯罪と強者の犯罪という2つに分類できる。前者は不満を解消するため、後者は欲望を満たすための犯罪行為と定義する。動機の方向性を考えるのだ。前提として、全てに満足していて不満のない人が犯罪を犯すことはほとんどなく、犯罪者の心には「こうでなければいいのに」や「こうであってほしい」といった動機が存在する。
弱者の犯罪、不満を解消するための行為の根底には、自分の境遇への不満や社会への不満がある。経済的困窮からの窃盗や強盗、怨恨からの殺傷、それに多くのテロ行為も弱者の犯罪と言えるだろう。そこには社会の不寛容や閉塞感や停滞に国家の貧困や衰退といったさらに根本的な原因が眠っている。マスコミが避けているのはこの部分だ。美しく豊かな日本という幻想にとらわれて現実を直視できないのだ。
逆に、強者の犯罪というのは脱税や汚職、性犯罪や組織犯罪といったものが考えられる。「もっとほしい」「もっとしたい」といった底なしの欲望がそこには隠れている。強者の犯罪には、地位や権力、知識や組織といった個人が持ちうる大きな力を使ったものが多い。特定の不満の解消といった目的のわかりやすい弱者の犯罪と比べると、強者の犯罪は欲といった論理を超越したものが原因なので動機の解明が難しい。欲という無限に肥大するものと違って、ある不満の解消という目的を持った弱者の犯罪のほうが解明しやすいのである。
相模原殺傷事件に話を戻すと、これは不満の解消を目的とした弱者の犯罪であり、彼もまた弱者であったことがわかる。自分の人生や仕事に不満を持ち、その矛先をさらなる社会的弱者に向け、間違った形で不満を発散させた結果が今回の事件となった。背景にあるのは負担感に不公平感に社会不安といった衰退する日本が抱えている諸問題である。こういった不満を和らげることができなければ、この手の犯罪はまた発生するだろう。
さらにこの事件で注意しなければならないのは、今回の犯行を機にマイノリティの弾圧が無限に広がりかねないことである。こういった思想の行きつく先はファシズムでありホロコーストである。マスコミは単に「危険な思想」といって何がどう危険なのか説明しないが、これは大問題である。マイノリティの弾圧というものに行き着くからこそ、こういった思想は危険なのである。
植松容疑者の論理は、ヨーロッパでの極右が移民を排斥しようとする論理によく似ている。「私たちの税金を食いつぶす障害者はけしからん」「私たちの税金を食いつぶす移民はけしからん」というように、社会的弱者を弾圧しようとする論理は単純だ。さらに過激派であれば、標的を障害者や移民だけでなく他のマイノリティ(高齢者、LGBT、特定の民族、特定の人種、政治家、金持ち)へと広げるかもしれない。こういった思想が危険なのはこの部分である。
もう一つマスコミが言及を避けているのが障害者そのものについてである。障害者の社会問題としては、触法障害者と障害者の税金というものがある。前者については、被害が発生してもマスメディアに取り上げられることはほとんどないので実態を知らない人も多い。これでは被害者も加害者も救われない。後者については、障害者に税金が使われているという事実さえ受け入れられない人たちがいて触れることすらタブーと感じられることがあるが、障害者の生活を保障するのは健常者の生活を保障するのに比べて財政的負担が大きいことは事実である。
国家は無限の財政を持つ打ち出の小槌ではないので、全ての国民に同じように手を差し伸べることは出来ない。もちろん社会的弱者が排除されるようなことはあってはならないが、何を優先してどこまでの救済ができるのか、限られた予算と人的物的資源の中で決めていかなければならない。国家にもトリアージが必要なのだ。
社会保障のトリアージを進めていく中で避けては通れないのが、死ぬ権利つまりは安楽死の問題だ。本人の同意なき安楽死はただの殺人なので言語道断だが、それとは別に苦痛から解放されるためや家族の負担になるのを避けるためなどの理由で自ら死を望んだ者が自らの尊厳をもって死ぬ権利をどう扱うのか。重病で助かる見込みもなく多大なる精神的肉体的苦痛を受けている者が「死なせてくれ」「殺してくれ」と懇願するのを「自分で死ぬのも殺されるのも許されない」と拒否し地獄の苦しみの中で死なせるのが人道なのか。私はそうは思わない。
EU加盟国は例外なく死刑を廃止しているが、オランダ、スイス、ベルギー、ルクセンブルグは安楽死を認めている。逆に日本では死刑は許されるが安楽死は許されない。死刑になりたいと言って犯罪を犯す者がいるが、安楽死制度があればこの論理は成り立たなくなる。理由の如何を問わず死にたい人が全員利用できる積極的な安楽死制度であれば慎重にならざるを得ないが、臓器提供意思表示カードのように安楽死の意思を表示するもの、そこにも踏み込めないなら重篤で回復の見込みもない状態になった場合の積極的延命措置拒否の意思表示ができるものなど、もっと尊厳死について議論があっていい。
最後に、こういった事件が起きないようにするにはどうしたらいいのか。先にも述べた通りこれらは不満を誤った形でぶちまける弱者の犯罪であるので、根の部分に働きかけていくには不満のない社会を作り極右思想を持つ者を減らす必要がある。
だが、単に極右思想自体を規制しようとする思想も、また非常に危険である。危険人物にGPSを埋め込もうといったことを平気で言える政治家がいるのはとても恐ろしいことだ。特定の思想を持つ人間を犯罪者予備軍と決めつけ人権を侵害するのは、戦前の予防拘禁制と同じであり危険な思想である。
水際で事件を防止するために施設の警備を強化するというのも間違っている。そんなことをしていてはいくら税金があっても足りない。ストーカー被害者が警察は守ってくれないと言うのをよく聞くが、警察は警備員ではなく、被害があるかもしれない場所や人物全てを警備することなど到底できない。身の危険を感じるならば、私設の警備員に頼むしかない。警察は犯罪者でなければ捕まえられないのだ。
ただ、捕まえることはできないが、監視して様子を伺うことは出来る。警察は要注意人物をマークして定期的に接触すべきだ。これならば一人で数十人を担当することができ、任意で話を聞くだけなので人権侵害にもあたらない。おかしな様子があれば、その時点で監視を強化し潜在的被害者保護を考えればいい。
市民の目も有効だ。近所で気になることがあったり最近様子が変わった人などがいれば、最寄りの警察署に相談すべきだ。警察官がパトロールを増やしたりそれとなく様子を伺ったりするだけならば、それほどコストもかからない。
自分は困っていない、自分は関係ないなどと社会的弱者を放置したり、社会が抱える問題から目を逸らし無関心でいる人たちが増えていくことにより、こういった事件が起きる。コミュニティの希薄化を阻止し個々人が孤立した社会を避けること、つまり一人一人が社会の一員である自覚をもって主体的に社会に働きかけていくことこそが根本的な解決方法であり、誰もができる社会貢献の方法なのだ。
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