2016年9月28日水曜日

専門家に専門性を求めない日本

日本では学閥と年齢を重視するあまり専門家と呼ばれる立場の人たちが専門性を持っていないことがよくある。ジェネラリストを求めスペシャリストを排除する。特に教育と政治ではそれが顕著だ。文化的なものなのだろうが学問で得られる専門性を不要とする学歴軽視は決していいことではない。

日本は「どこの大学を出たか」にこだわる学閥重視の国で「いつ卒業したか」を重要視する新卒至上主義の国でもある。若さが大事というのは労働者を代替可能な「部品」として見た場合には合理的でどれも同じような「部品」ならば耐用年数が長いほうがいいということだろう。では学閥主義はどうか?日本では偏差値という物差しで大学の序列がはっきりしているのでこちらはマウンティングに最適だ。「お上の言うことは絶対」という奴隷的な思想が根強く残る日本ではとても使いやすい。だが多様性が失われ組織を守ることが目的となった企業が失敗するのはSHARPや東芝を見れば明らかである。

学閥や年齢といった見た目にはこだわるが中身には全くと言っていいほどこだわらないのが日本だ。「どの大学か」が重要なので「何を学んだか」はどうでもいい。その上学歴は軽視するので修士号や博士号を取っても就職先がないポスドク問題というものまである。博士号が必要なのは研究者と教授ぐらいで普通に就職するなら修士号すら不要な場合がほとんどだ。医者は一応研修医制度があり6年制で薬学部も6年制になったが弁護士を養成するはずの法学部は学部の4年制で幼稚園の先生や保育士に至っては短大卒でいい。評論家というよく知られた事実や迷信を素人にわかりやすく伝える専門家とも言えない謎の人種が多いのも日本の特徴だ。

専門性の軽視は日本の歪んだ天才信仰から来ていると思われる。日本人は神童や天才といった言葉が大好きで「何でもできるスーパーマン」を求める傾向がある。何事も人より上手くできる人は確かに存在するがあくまでもそれなりでそういう人たちはどこまで行ってもジェネラリストだ。天才とは本来「~の天才」という限定された分野がつくが日本では天才は何事においても天才というおかしな幻想がまかり通っている。アインシュタインは「物理の天才」でスペシャリストだが詩人ではないしアインシュタインと聞いて「著名な物理学者」ではなく「頭が良い」と思い浮かべてしまうのは既に日本の天才信仰に毒されている。偉人の名言集などは面白いかもしれないがそれらは彼らの功績ありきなので発言そのものには大した価値はない。天才の言葉ならみなありがたく素晴らしいということはないのである。

何でもできるというのは何もできないの裏返しで雇用者側から見ればいろいろなことをそつなくこなすジェネラリストは使い勝手がよく会社の歯車としては優秀だがいざ専門的な知識が必要となった時にはジェネラリストでは対応できない。そうなるとジェネラリストはスペシャリストとの間を取り持つ潤滑油になるのが精一杯だ。専門家には頑固だったり話しづらかったりする人も多く話を円滑に進める窓口はあってもいいがそのせいで窓口を重宝し中身をないがしろにするようなことがあってはならない。技術者開発者を使い捨てにして企画営業だけを大事にしたり効率化やマネジメントに注力して現場の意見を無視したりしていると残るのは見た目を取り繕うのがうまいだけのハリボテだ。

専門性の軽視に関して日本の教育はひどいものがある。一説では人間の脳は3歳で80%6歳で90%12歳で100%完成すると言われており子どもの教育に発達心理学の知識は必須であるが幼稚園教諭や保育士になるのに学歴はいらず小児心理学の専門的知識も必要ない。資格も取りやすく待遇も悪いので高度な人材は育たない。子どもの脳が大きく発達する大事な時期に預ける先が誰でもできる仕事のように思われている。小中高と教師の質もひどい。専門的な教育なしで教育免許が取れるのでただの学部卒でも教師になれる。子どもの心理ケアや教育のノウハウなどろくに学ばなかった学士を取ったばかりの人たちがいきなり教育の現場に放り込まれる。小学校で児童が先生に理不尽な目にあわされたり先生の言うことが出鱈目で矛盾だらけというのはしょっちゅうだ。中学校の先生が無知だったり間違った知識を教えていても誰も気に留めない。英語の教科化で英語のできない先生がおかしな発音と足りない知識で子どもに英語を教えるなど子どもたちはひどい目にあわされている。高校は学校によってばらつきがひどく質の高い教員をそろえているところもあればウィッツ青山学園高校のように学費だけもらって高卒資格を与えているようなところもある。教師の性犯罪や不祥事も後を絶たず親の財力と方針によって教育格差は開く一方だ。

政治分野での専門性軽視も甚だしい。日本の政治家は学士ばかりで修士号や博士号を持っている政治家は非常に少ない。アメリカの国会議員は院卒以上がスタンダードで学部卒のほうが少数派だ。政治家に勉強や専門分野は必要ないのか。 日本の大臣制度も呆れるばかりだ。国務大臣の過半数は国会議員で構成することと定められているが大臣ポストは派閥と当選回数が物を言う素人持ち回りのお飾りだ。そもそも日本は人口が3倍のアメリカよりも多くの国会議員がいる。どうして学のない議員ばかりがそんなに必要なのか。大臣が無知で「これから勉強します」が許されているが戦う相手は海外の大学院に留学して専門知識を学び専門分野で経験を積んだ官僚たちだ。これは大人が赤ん坊を相手にしているようなもので大臣が官僚の傀儡となるのは必然だ。何故専門家を大臣にしないのか理解できない。

日本の中央銀行である日銀も異例中の異例だ。政策委員に博士号修士号取得者がおらず黒田総裁に至っては法学部の学士号しか持っていない。経済学の勉強もせず研究もしてこなかった低学歴の人たちが日本の金融の中枢を牛耳っているのである。海外の中央銀行はトップ校で学んだ精鋭ばかりで博士号を持っていないほうが珍しい。大学や研究に加え仕事などで横のつながりもあり中銀幹部同士が旧知の間柄だったりもする。そんな中に英語もままならず経済理論も知識も足りない人間が入り込んでいって話が通じるのか。黒田総裁は「物価が持続的に下落するデフレではなくなった」と言ったが物価が持続的に下落する現象をデフレーションというのであって物価が下落しないデフレというのは存在しない。そもそも日本がデフレだったのは2000年前後とリーマンショック後の数年のみでそれ以外の期間では物価は安定している。物価が変わらないのはデフレではない。

全てにおいて専門家が常に正しいということは決してないが専門家であれば少なくともその分野の基本的な知識を持っていることが期待できる。専門家でないのに専門職につけているのは慣例なのか経験重視なのかわからないが専門職であるのならそれなりのものが求められる。少なくとも現状分析ができること、わかっていることとわかっていないことを説明できることは必要だ。現在こういう状況でこれはわかっていてこれはわかりませんと言えること。特にわかっていないことをわからないと言えることつまり無知の知は重要だ。トリクルダウンが起きると言ってみたり増税で景気回復と言ってみたり政治家は嘘を平気でつく。理論的後ろ盾のない日銀の2年で2%という嘘も原油価格下落のせいにしてほったらかしだ。適材適所。餅は餅屋。ジェネラリストが幅を利かせるのでなくスペシャリストがエキスパートとして活躍できる世の中を望む。

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