2020年3月27日金曜日

善意に頼る日本人 想像力の欠如

世界的な新型コロナウイルスの感染拡大懸念で危機的事態となっているが外国と比較したそれに対する対応の違いで日本社会の弱点が浮き彫りとなっている。権限のない責任者に必要な意思決定が迅速に行われない社会システム、社会的な善が無条件で受け入れられると思い込んでいる想像力のなさ、その背景にある格差。目をつぶっても問題はなくならない。直視して向き合うしかないのだ。

新型コロナ危機での後手後手の対応を批判をするのは簡単だがこれは政治課題というよりは社会の構造的問題なので政治批判は的外れだ。緊急事態宣言こそ出せるよう整備はされたが日本にはいろいろなことに対して権限とその根拠となる法令がないことが多い。名ばかり責任者がいても実行力がないのだ。都市封鎖だ、ロックダウンだと言ってはみても根拠がなければそんなことはできない。せいぜい各地に警察官を配置して出歩かないようお願いして回るのが精一杯だろう。法治国家では法的根拠がなければ自粛要請はできても外出禁止はできないのだ。

ガチガチの契約社会で権利を勝ち取ってきた欧米諸国と違って外圧で輸入したような民主主義となんちゃって法治主義の日本では根本的な在り方から違う。大統領令や非常事態宣言で必要な時は強権的に政策を実行できるのは法律でしっかり定められているからで何が良くて何がダメなのか話し合いぶつかり合い戦ってきた結果があるからだ。文化的下地がなく外国を真似ただけの日本ではそういったことをきちんと機能させるのは難しい。身近なところでも道路の法定速度が守られていないという問題があるがこれを法改正せずになあなあで放置してしまうのが日本人の国民性であり日本という国家なのだ。

権限を持つ人がいなければ責任も曖昧になる。責任の所在がわからない、誰も責任を取らないというのはもはや日本のお家芸だが法律を守らない形だけの法治国家であれば利権が幅を利かせ忖度すればいい思いができ鶴の一声で全てがひっくり返る権力者に都合の良い世の中になるのは当然の帰結だ。「誰が言った」かが大事な社会では議論や話し合いなど到底成立しない。事前の根回しで「正解」を決めた上で合議制とは名ばかりの同調圧力で全会一致。事前調整で「偉い人」全員にお伺いを立てていれば時間がかかるのは当たり前だ。東京オリンピックの延期プロセスを見ていくだけでも日本という国がよくわかる。

極めつけは「悪意」の存在を想像すらしていない「善意」に頼り切った脆弱な社会システムだ。命は大切だ。子どもは守るべき存在だ。長生きはいいことだ。病気を広めるのはよくない。それらを絶対と信じているのなら前提が間違っている。世の中には破滅願望を持つ人もいて、社会の混乱や世界の滅亡を望む人もいる。人を貶めることだけが生きがいで悪意の塊のような人もいる。性善説を信じて疑わないような「きれいな」人間には社会を守れないしそういう人間に地位を与えるべきではない。性善説に基づいた社会は悪意に晒されると本当に脆い。

アメリカのTwitterでBoomerRemover(ベビーブーマー世代を除去)がトレンド入りしたことは興味深い。若者は重症化しにくい新型コロナを積極的に広めて無能な高給取りの老害をやっつけようという思想だが世代間格差の酷い日本で同じような動きがあってもおかしくない。コロナ・パーティーをする側にはする側の論理がある。性善説を信じて突き進むのは無謀でしかなく、法律は性悪説を前提に作成する必要がある。悪意に対抗できないのに綺麗事を言って悦に浸っているのは滑稽だ。

自粛しろ我慢しろと言っているのは守りたい、守られたいと思っている人たちだけでそれは世界の総意ではない。現状新型コロナは8割が軽傷、残りの2割が重症となり全体の5%は命の危険があると言われているが最悪のケースで2割が死亡しても残りの8割は何事もなく生きていけるのだ。人の命は地球より重い、弱者は守らなければならないと思うのは勝手だが実際には人の命はそれほど重くはないし全ての人を助けられるわけでもない。行き過ぎた人権意識のせいで自分を特権階級と錯覚してしまうような弱者さえいるが弱者は結局は弱者なのだ。高齢者や持病がある人は弱い。強制力のない国で「出歩かないで」とお願いしたところで従うかどうかは自由意志だ。本来なら弱者本人が「弱いので助けてください」「私を殺さないで」と頭を下げてお願いすべきケースだが弱者保護は社会的善なので国が発信しているのだ。だが法律がなければ個人がどうしようがそれは自由で要請を守らない人を責め立てても無駄でしかない。

自粛要請に従わない人をけしからんと切って捨てるだけような人が本当のバカなのだ。自分が正しいと信じて疑わない想像力の欠如した人とも言える。何故そういったことが起きるのか考えてみればいい。単に自分はコロナにかからないと思っているだけなのか?感染しても別にいいと思っているのか?積極的に広めてやろうと思っているのか?自分は例外と思っている人ならば話は通じるが自他の感染をよしとする人はそうではない。だが彼らは確実に存在する。そんな人たちに対しどんな防衛手段が取れるのか考えることこそが想像力なのだ。

不満のテロリズム 無敵の人を減らすにはに詳しく書いたがいつ死んでもいいと思っている自暴自棄の人や積極的に社会を壊してやろうと思っている人は存在していて気付かなければいなくなるものではない。想像力があればそこに気付けるのだが凝り固まった価値観を持っていると異質なものの存在を認識できず自分の当たり前を疑うことができない。無敵の人を減らすには存在を認知した上で対策を取らなければならないがそれができる人は平和ボケした日本には少ないというのが現状だろう。まず自分だけがよくてもダメだということを認識しなければならない。

簡単に考えてみよう。結婚するのが70%、大卒が50%程度であれば社会的地位があって結婚をして守るものがある人は40%程度だろう。結婚できない、離婚した、稼ぎが少ない、仕事がないなどで絶望してしまった人たちには守るものはない。別に社会がどうなってもいいと思っているかもしれない残りの60%の中には社会に恨みを持って他人を苦しませてやろう、社会を壊してやろうと積極的に行動する人も現れる。そういう人たちを減らすには強者が弱者を見下し正しいを振りかざす「~であるべき」論ではダメで弱者の意見を聞き地位を向上させ社会に取り込まなければならない。

格差があれば自ずと持つ者と持たざる者が発生する。持たざる者をバカにしていれば自分に返ってくる。特に悪意に脆い日本社会では悪意を放置するほど危険が増す。悪意の存在を前提とした社会システムの構築とセーフティーネットの充実をしなければ社会はますます不安定になるだろう。コロナをばらまきたいと思うようような人を減らす社会にすると同時に法の支配を根付かせ自粛要請などではなく強制力を持った命令が実行できそれが人民に許容される社会にしていくことが必要で、そのためには想像力は不可欠だ。

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