2019年5月28日火曜日

不満のテロリズム 無敵の人を減らすには

日本はテロとは縁遠いと呑気に考えている平和ボケした人もいるかもしれないが、日本でも通り魔という形でテロはたくさん起きている。これは誰もが被害者になりうる。テロの根源は不満であり、不満渦巻く日本社会でテロは増える一方だ。手を差し伸べることは自分を守ることにつながり、ひいては社会秩序の維持につながる善良な市民の義務のようなものだ。見下せば足元をすくわれる。見放せば恨みを買う。テロ対策は国民全体で取り組むべき問題だ。

テロリズムは大きく2つに分けられる。思想のテロリズムとストレスのテロリズムだ。どちらも不満の解消という目的が根源にあるがその方向性が違う。思想のテロとはこうあるべき、こうでなければならないという半ば義務感からくるもので自分の理想に社会を無理やり近づけるというものだ。宗教がらみや優生思想がわかりやすいがその特徴はどれも特定の思想を押し付け社会を自らデザインするかのような傲慢さが背景にある。ストレスのテロとは慢性的に受けているストレスを他者への憎しみに変換しぶちまけてしまう、いわば八つ当たりのようなものだ。多くの通り魔事件は後者に属する。

日本では思想のテロは少ないように思う。それは良くも悪くも国民が均一的で矛先を向けられる相手が少なかったからだろう。だが海外ではこちらのタイプがメジャーで逆にストレスのテロはそれほどないように思える。不満を持つ人が一定数いれば一定の確率でテロが起きると考えれば日本も外国もテロの数自体は大差ないのかもしれない。銃が広く出回っていると被害者も増えやすいがテロが割合で起きているなら不満を持つ人は無視できない問題だ。

欧米で多発している極右テロはやたらと移民を受け入れていることがきっかけとなっている。自国民で困っている人がいるのをほったらかして難民を手厚く保護していれば不満はたまる。他人が土足で自分の家に上がり込んで快く思う人はいないだろう。常識も文化も価値観も違う人たちを受け入れるとはそういうことだ。欧米では移民の名目でイスラム教徒が集団で国に入ってきてモスクがどんどん建てられトイレの手洗い場に足を突っ込み洗う人が現れたりしているがこういうことを際限なくしていては不満を募らせる人がいても仕方ないだろう。

人道主義の正体は肥大化した自尊心 進む先は滅びの道にも書いた通り、人道主義には問題がある。それは資源の有限性を無視し弱者の優遇を強制することだ。男なんだから奢れ。お兄ちゃん、お姉ちゃんなんだから我慢しろ。困っている人がいるから寄付しろ。強い立場であることを理由に何かを強制させようとする理不尽。理想を掲げるのはいいがそれを他人に強制するのは違う。無限のリソースがあればそれでもよいが残念なことに資源には限りがある。私は正しいことをしているからあなたは従うべきだ。人道主義にはそんな傲慢さが見え隠れしている。

人道主義者はいざ問題が起きれば正義を振りかざそうとする。近年は裁判どころか疑惑が上がっただけでも糾弾され袋叩きにされることも多い。犯罪が発覚すれば全て自粛、見せない見させないで徹底的に隠す。ソーシャルメディアの役割も重要になっていて話題が爆発的に拡散する。テロ動画や声明文も投稿されたりするがそれらも騒ぎ立てられ消されてしまう。動画の削除は被害者がいるのでやむを得ないかもしれないが声明文を読ませないようにするのは言論統制だろう。事件は隠せば消えるものではないし犯人の動機を解明するためにはそれらを知る必要がある。感情的に反応して「テロリストに居場所はない!」などと言ってしまうのは逆効果で、「差別主義者を差別しろ!」と叫ぶのは潜在的な衝動のある人に動機を与えているようなものだ。思想のテロである極右テロの背景には逆差別を助長する強硬な人道主義があるように思う。

テロは割合とすれば日本でも同じくらい起きていることになるがどうだろうか。日本では悪意が多数に向けられるより決まった人物に向けられることが多いのではないか。不満の解消という点では他人への横暴な態度、家庭内暴力、虐待などの形で噴出しているととらえることもできる。不満があれば何らかの形で爆発するのだ。それらを通り魔に加えれば日本もテロが多発しているといえるかもしれない。

相模原殺傷事件の本質は極右のテロリズムでは犯罪を弱者の犯罪と強者の犯罪に分類し事件を分析したが、あの事件は自分の境遇に不満を持つ=ストレスを感じていた容疑者がそのストレスを優生思想と結び付けて起こした複合型のテロと言える。ただより多くのウエイトを占めていたのはストレスでありどちらかに分類するならストレスのテロだろう。衰退している日本では貧困の再生産や階層の固定化、超高齢社会や世代間格差など差別や貧困を生み出す要因に事欠かない。ストレスの原因を取り除き不満を感じる人たちを減らしていかなければ不満のテロリズムは今後も増えていくだろう。

不満を持つ者が社会から除け者にされ、かつ彼らに失うものがない時に「無敵」の人が誕生する。恵まれた者が「努力が足りない。自己責任だ。」と言うのは勝手だがそれはテロの芽をまく行為でもある。生活保護やベーシックインカムは弱者保護のためであると同時に、社会秩序を守るためのものでもあるのだ。セーフティネットがあることで潜在的に不満を持つ可能性のある人たちの抑止力になるのだ。無敵の人にとっては、あなたやあなたの大切な人、コミュニティーや社会全体が人質となる。自分は関係ないと思うならそれでいいが、テロリストが社会への復讐を考えた時に被害者になるのは自分たちかもしれないという視点は必要だ。

無敵の人は失うものがない。家族友人その他社会とのつながりが希薄だから事件を起こしても巻き込まれる人がいないのだ。そういう人たちが不満を募らせれば標的はもちろん社会だ。つながりをもたせて除け者を作らない。事件があるたびにただ犯人を憎むような「心のきれいな」人たちは自分たちの反対側にいる人間を思いやれない。なぜそんなことをしたのか、社会に何を求めていたのか、監視しつつも手を差し伸べる、そんな冷静さと残酷さがなければ事件を防ぐことはできない。

全ての人の不満をなくすことはできないがまずは色々な意見に耳を傾け話を聞くのが重要だ。心を開き耳を貸す。理解して理解される。思想は規制できないので思想に基づくテロをなくすことは難しいが幸い日本では思想のテロは多くはない。ストレスを感じている人を社会の一員として認め受け入れることでどんなことに不満を持っているのか探ることができる。受け入れられていると感じてもらうことができれば不満を和らげることもできる。

あってはならないのは不満を押さえつけることだ。抑圧された不満はより大きくなって爆発する。テロではないが家族親族間のトラブルは大半がこれだ。日本は同調圧力が強いと言われるが押さえつけ締め付けて問題をなかったことにしても影では不満がくすぶっている。知らんぷり、見て見ぬふりで困っている人をを放置してもそれは問題が見えなくなるだけで問題はなくならないのだ。日本では親子間の過干渉やしつけと称した虐待は多いが暴動などはあまり起きていない。だが今後社会情勢が悪化して社会全体で弱者や特定層への排斥が強まれば集団テロが起きる可能性も否定できない。

不満を生み出すこともすべきではない。インターネットでは他者に攻撃的な書き込みが多くあるが無意味なマウンティングや暴言は不満を募らせるループを作り出してしまう。いじめで虐げられた人は無関心だった人にも恨みを持つし利権やえこひいきが他者の目に触れれば不満を生み出す。SNSでの自慢やひけらかしもどこで誰が見ているかわからない。勝ち組負け組と煽ったり恵まれた境遇を普通と言ってしまったりしてもいけない。統計を調べればわかるが大卒も年収600万も持ち家も配偶者も子供も当たり前ではないのだ。

テロを減らすのに一番大切なのは許容である。許容するとはいろんな人がいることを認める、多様性を受け入れるということだ。忍耐と言うと我慢して溜め込んでしまうことになるし全てのことに寛容になれと言っても難しいだろう。自分と合わない人もいる。気に食わない人もいる。そんな時は相手にとって自分もそうであろう、仕方ないと諦めるのがよい。強制して押し付けあったり対立したりすると、問題がエスカレートしてしまう。厄介な相手とは監視しつつも距離を置く、政治やビジネスのような関係性が求められる。

無関心は悪だ。見放せば除け者を作ってしまいそこから無敵の人が生まれる。社会全体や個人で不満を持つ人たちを減らしつつもつながりをもって監視しあう、三すくみのような関係がなければ社会秩序は保てない。情けは人の為ならずという言葉はあるが、返ってくるのは善意だけではない。誰かに向けた悪意も巡り巡って自分に返ってくる。そのことを肝に銘じておきたい。

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