2017年7月26日水曜日

告白という中世の文化

いつ頃からあるのか知らないが日本には好きな人に告白するという文化が存在する。だが告白とは本来罪を白日の下に晒す、自白する、懺悔するという意味であり現在行われているマウンティングのようなものからはかけ離れている。日本人は何故こんな無意味なことをしているのか、その謎に迫ってみる。

そもそも日本で行われている告白というものは外国では理解されず通じないだろう。英訳しろと言われてもその風習を説明するしかない。私は言語学者ではないので詳しくはないが恐らく告白という言葉の語源も英語のconfessを単に日本語にしてみただけだろう。stardust=星屑やbrainwash=洗脳など日本語のふりをしているが実は直訳された英語という言葉は多い。ならば告白という言葉も元々は本来の意味で使われていたはずだ。

私は告白と言えば教会で懺悔するシーンを思い浮かべるがそういう人は日本では少数派だろう。だがそれが本来の意味である。告白という言葉が作られた時には悪いこと、秘密にしていて言えなかったことを言うという意味で使われていたと思えるのは昔は身分というものがあったからだ。中世から江戸あたりまでを考えてみてほしい。身分違いの許されざる恋があった時代だ。身分の違う相手に好きだなどとは到底言えずそれどころか好意をみせることすら許されない時代。どんなに相手を思っていてもそんなことはおくびにも出さず平静を装って接していた時代。そんな時代であれば許されざる相手に好意を持っていることを伝えるのは大きな意味のあることであり告白という言い方も正しいものだっただろう。

そう考えると告白とは身分違いの相手に言ってはいけない好きという言葉を伝えてしまうことを指していたのではないか?という仮説を立てることが出来る。それなら告白という言葉の使われ方にも納得できる。これを前提にすると今日本で行われていることがどれだけ滑稽なことかわかるだろう。叶えてはいけない恋に踏み込む一歩という意味であった告白を形だけ踏襲し、単に相手に好意を伝えることを告白と称しているのだ。

身分違いで相手に対する好意を告白するのは身の危険すらあった。それが中身のない儀式に成り下がっているのではないか?それとも日本人はまだ江戸時代に生きていて明治になって四民平等で身分制度が廃止されたことを知らないのか?身分が違うわけでも気持ちを隠しているわけでもないのに一体何を告白しようというのか?気になる相手なら声をかけて話してみるのが道理だ。兄弟知人同僚の配偶者など今でも好きになってはいけない相手というのはいるがそうでなければ現代で好意を隠す意味はあるのか?

好きという気持ちを隠して接していて実は好きでしたというならばまだそれは告白と言えるかもしれないが散々付き合いを重ねた挙句確認のように付き合ってくださいなどと言うのはもはや侮辱にも思える。何故一緒に過ごして自然に仲良くなって好きになるという当たり前の中にとっくに意味を失った風習を持ち込もうとするのか?そこにどんな意味があるのか理解に苦しむ。

この時代錯誤の形骸化している文化はたくさんの被害者を生んでいる。告白しなければ付き合えないと思い込んでいきなりよく知らない人に好きですなどと言ってしまう人がいる。おかしな風習のせいで言った方は不審者で言われた方は怖い思いをするかもしれず双方が被害者になってしまう。お話できますか?で始まり相性がよければ自然と恋愛に発展していくのはおかしなことなのか?

告白されなければ恋人ではない。何年付き合っていても確認の儀式がなければ恋人ではないのか?そんな都合の良い関係でお互い納得できているのか?好意は常に伝えていくものであってそれをしているのならば告白されず悩んだりいつ告白するのか悩んだりするのはおかしなことだ。逆にそんなこともしていない相手から言葉だけ聞かされても信用できないだろう。仲良くしていても不安で付き合っているか聞くことはあるかもしれないが告白という儀式がなければ付き合ったことにならず恋人でもないという風潮はよいものではない。

告白文化には何でも形から入ってマニュアル通りテンプレ通り事なかれ主義でやろうという日本人の民族性が透けて見える。どんなに無意味な行為でも一旦根付いてしまえば行為の意味を考えず延々と行い続け検証はしない。前例に倣い例え意味が失われ形骸化していても同じ儀式を続ける。考える人はそこにはいない。日本の告白というのは惰性で行われている悪習であるように私には思える。

0 件のコメント:

コメントを投稿