日本には何かの名人や一芸の達人を神様と崇めて神格化し信仰する文化があった。元々神事や戦の模擬想定として発展したこともあって特に武道とマインドスポーツ(頭脳を使う遊戯)ではそれが顕著だったが相撲や将棋といった最後の砦ともいえるスポーツの幻想が打ち砕かれたことによって彼らは神ではなくなった。そんな現在で将棋棋士がどれくらいすごいのか考察する。
相撲は総合格闘技の台頭もありマイナー格闘技の一つとなった上に元相撲取りも総合格闘技に進出していて曙がマケボノ呼ばわりされたり他の元力士も振るわない成績で根強く相撲最強説を唱える者がいてもあまり真剣に取り合ってはもらえなくなった。武道一般はそれ自体がマイナーで数ある部活の一つといった扱いだ。多くの競技が統計などで数値化されトレーニングも科学的となり異種競技でも比べられるということでプロスポーツ選手が神格化されることは少なくなった。
一方で将棋は天才と崇められ頭が良いと言われることも未だに多いが有限の選択肢の中から最適解を選び続けるという競技の性質上創造性は必要なく記憶と計算とシミュレーションが得意なコンピュータに負けるようになったのも必然だ。そこは閉じた世界であり将棋の才能は記憶力や暗算の才能と同じように扱われるべきものだ。この分野で人間がコンピュータに勝てるはずもなくどんなにすごくてもコンピュータには負ける。人間同士で比べれば相対的に優れているが絶対的な強さのコンピュータにとっては赤子以下なのが棋士という存在だ。
機械に勝てないからといって価値がないことにはならない。機械には勝てないが人間は競い合うのが好きで世界一の称号は素晴らしいものだ。だが絶対的能力という点で見れば人間は走りではチーターに敵わないし直観像記憶力ではチンパンジーに敵わない。反復動作や精密動作はロボットに分があり創造力を必要としない知的能力についても機械の方が優れている。人間だけが絶対的に優れている能力はもはや創造性しかない。自然科学である物理やその基礎である数学にはまだ神がいてその学者研究者は人類の宝だが絶対的能力という点から考えればそれ以外の分野にもう神はいない。芸術を評価するのは人であるので芸術家も神となり得るがそれほど評価されることは稀だ。
棋士の才能は限定的で記憶力チャンピオンや暗算チャンピオンと似たようなものだ。才能の珍しさの違いは多少あるが一芸に秀でた人たちはみなピラミッドの頂点でピラミッドが大きければ大きいほど希少な才能であると言える。名人・達人とはプロスポーツ選手やプロゲーマーなど数多の競技者、ミュージシャンや建築家など様々な分野の第一人者たちと比べられるべき存在なのだ。そこで難易度という観点から将棋を評価してみる。具体的には東京大学生になることとプロサッカー選手になることと比べてみる。
東大入学者の人口に占める割合は1%以下だ。東大入学者数は1965年以降から現在まで増減はあるものの概ね3千人前後で推移している。正確な数字は手に入らなかったので概算すると人口1億2千万人で東大入学者は3000(人)*60(年)とすると全人口に占める東大生の割合は0.15%となる。
棋士は絶対数では格段に珍しいと言える。日本将棋連盟によると棋士番号順一覧で個人名にリンクが貼られているのは370名だった。東大生の推定18万人とは桁が3つも違う。ただほぼ全員が学校教育を受けるのと違って将棋に興味を持って日常的に指すような人はそもそも多くない。競技人口が違い過ぎるのだ。そこに目を向けると2015年のレジャー白書で年に1回でも将棋を指したことがあるのは530万人となっている。普及度合いを知るために日本将棋連盟に記載された将棋教室を集計してみると472であった。東大合格者数にあたるプロ棋士になれるのは年に4人らしい。
同じく2015年のレジャー白書によるとサッカーを年に1回以上プレーしたのは480万人。日本人プロサッカー選手は海外にもいるが簡易計算のためJリーグのみで考えてみるとJ1からJ3までが18+22+14=54クラブでそれぞれ25人の選手が所属するなら1350人となる。将棋と比較するためサッカークラブ登録数を調べるとJFAに登録されたサッカークラブは2016年度で28362団体であった。そしてJリーガーは日本人では年120人程誕生しているようだ。
ここまでを表にすると上記のようになるが東大が全人口なのに対し将棋とサッカーは年に1回以上やったことがあるというアンケートでサッカーより将棋がメジャーであるというのはいくら将棋はコンピュータやオンラインがあるにしても教室・クラブの数が違い過ぎるのでこの統計をどの程度信頼してよいか疑問がある。そこで別の角度からも見てみたい。今の子どもがそれぞれを目指したらどうなるかという視点だ。
出生者数は2016年についに100万人を割れたが戦後に二度のベビーブームを経験しその反動で出生者数が急減した1990年代以降は少しずつ減少しつつも一学年は100万人+できれいな右肩下がりだ。再来年大学を現役受験の2000年生まれが119.1万人で東大合格者数を3千人とするとその割合は0.252%となる。団塊世代250万人の頃も東大の枠は同じ程度だったので東大入学は最も難しかった頃と比べると2倍以上入りやすくなったということになる。
数字を見やすくするために一学年100万人で東大合格者は3千人、将棋人口は5%(40人クラスに2人)と1%(100人に1人)でプロ棋士は4人、サッカー競技人口は10%(クラスに数人)でプロサッカー選手は120人とするとその割合は以下のようになる。
これを見てわかるのは推定によって難度は変わるもののどれも1%以下の世界で簡単にはなれないということだ。全国的な競争があるものならトップクラスになれるのは1/1000程度ならば簡単な部類でその意味で言えば東大入学は易しい方である。毎日指すような将棋好きがどれくらいいるかは知らないが棋士になるのは入口の大きさからすれば東大入学より難しそうだ。サッカーは子どもがなりたい職業ランキングの常連で母数も多めだが受け皿の大きさを考えるとプロになるだけならそこまで難易度は高くないかもしれない。
これら3つで大きく違うのは努力と運と才能の割合だ。勉強は誰もが経験することでもちろん才能もあるが勉強量でカバーできる部分も多いだろう。将棋やサッカーももちろん努力は必要だが興味をもって始めて好きになって継続してさらに才能があることが必要なので関門が多い。全ての人が参加する学校での勉強という競技と違いやりたい人だけが始めるもので掛け持ちの大変なものは競技者の取り合いも起きる。サッカー選手兼野球選手は難しいし将棋棋士兼学者もほとんどいない。どちらもある程度できる人はいてもどちらも一流の成績なんて人はまずいない。時間と脳のリソースが有限である以上打ち込むものを選ばなければならないのだ。その場合野球で言えば打者大谷より投手大谷の方が希少といったようにより珍しい才能を優先するとオンリーワンになれる可能性が上がる。
プロ棋士は希少な才能ではあるが一芸であって彼らが~をやればというタラレバには意味がない。もし彼らが物理学者になれば宇宙の真理に近づけるとでも言うのなら単なる娯楽に過ぎない将棋を四六時中指しているのは人類の損失だが彼らは将棋を指すから棋士なのであってそれ以外にはなりえない。
専門家に専門性を求めない日本にも書いたが才能というのは限定的で何でもできる人などというのは存在しない。頭がいいというのも定義しなければ曖昧で人によって何を指しているのかが変わってしまう。各々が最も比較優位のある才能を伸ばし専門家となるのが世の中全体では一番いい。それが最適化というものだ。みなが自分の才能を見つけて名人・達人となれる環境を作ってそれぞれの専門家をリスペクトできる世の中であってほしい。
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