2020年8月31日月曜日

将棋から考えるゲームの要素

藤井聡太二冠の誕生がニュースになっているが既にコンピューターは人間よりはるかに強くなっていて将棋は見世物でしかなくなっている。競技レベルの低い人間同士の将棋にスポンサーがいるのは何故か?一体どんな要素が人々の注目を集めるのか?ゲームの面白さについて考えてみた。

頭を使って競い合うことを頭脳スポーツ、マインドスポーツと言うがどのスポーツにも共通することはルールと勝敗があるゲームということだ。最近はeスポーツにも注目が集まっているが数あるゲームと将棋を分けるものは偶然性の有無だ。体を使うスポーツであれば筋肉の状態や疲労で全く同じ動きを繰り返すことは難しいし気象条件、道具や場所の違いが偶然性となり同じ人でも意図的に同じ結果を何度も出すことは難しい。一般的なゲームでもサイコロやくじや配置などでランダム性があるものが多いが将棋にはそれがない。これは大きな欠点と言える。

ランダム性がないということは同じことをすれば同じ結果が出るということだ。将棋の攻略法が解明されれば最善手を指し続けても必ず先手か後手が勝つか引き分けることになる。そうでなくなるのはどちらかが手順を間違えた時だけで、そうなれば将棋とは相手が間違えるのを待ち続けるゲームということになる。もちろん間違えないというのはすごいことなのだがそれはフラッシュ暗算と同じだ。足し算なんて簡単だと思う人もいるかもしれないが桁が多かったりスピードを要求されると途端に難易度は跳ね上がる。人間には速度と正確性という限界があるからだ。足し算も見方を変えれば難しいということになるが将棋の難しさもそれと似たものだ。

コンピューターは速くてミスをしないし疲れもしない。創造性は今のところないが作業能力は抜群だ。将棋AIがプロ棋士よりはるかに強くなり将棋ソフトを使えば素人でもプロ棋士に勝ててしまう。戦局の評価がコンピューターの導き出す評価値で行われるようになり、棋譜がいかに最善手と近いかという一致率で棋士が測られるようになった。アナログ部門最強ではあるがPCを持った小学生に負けてしまうプロ棋士とは最も将棋が弱い人たちのことだ。機械に頼らずあえて非効率を選んで遊んでいる優雅な人たちとも言える。それは円周率を手計算で計算し続けるようなものだ。

陸上選手は車と争わないから人間将棋とAI将棋は違うと思う人もいるかもしれない。だが足を使って走るのとアクセルを踏むのとでは視覚的にも能力的にも別物で、陸上とモータースポーツは別のスポーツとして人気がある。どちらも高い技術が求められ考慮する要素も多く競技性が高い。スポーツで求められるのは筋力やコーディネーション能力に加え状況判断や相手との駆け引きなど多岐にわたる。一方将棋は限られた選択肢の中から一つを選び続けるというだけの誰が指しても同じことができるものでしかも偶然性がない。この偶然性の欠如が競技としては致命的で同じことをすれば毎回同じ結果になり確率に左右されないので運や勝負の綾というものが存在しない。素早く計算問題を解いていって先に間違えたほうが負けというゲームと変わらないのだ。

頭だけを使う格闘技という考え方もできるが、格闘技は一瞬の判断ミスで形勢が逆転するスリルがあるし偶然性もある。将棋には格闘技に限らず多くのゲームに存在するタイミングも存在しない。球技であればインパクトの瞬間を逃がせば空振りするしeスポーツでもボタンを押すタイミングを間違えれば失敗する。タイミングの計りあいともいうべき格闘技と選択肢から選ぶだけという将棋では競技性が全く違う。ロボット同士が格闘しているのを見れば一目でわかるが盤面だけを見ても誰が指しているかはわからない。人間と見分けがつかない精巧なロボット同士を競わせることができるようになればロボット格闘というジャンルも成立するが科学はまだそこまで発展していない。一方将棋では人間とAIの区別はできない。そんな中で人間だけでの争いを無差別級と言っていいのか疑問だ。ミスが前提の弱い人間同士でやっても最強は決まらない。

弱い者同士でも実力が近ければ競技が盛り上がる部分もあるが、最強同士がぶつかり合う競技と比べれば競技レベルが下がるし偶然性のない将棋であればなおさらだ。競技レベルを上げたいのであればAI同士に打たせるのが一番だが恐らく人間には局面が理解できずつまらないと思ってしまうだろう。将棋はあえて競技レベルを下げているのだ。これはプロに限らず言えることで、ネット対戦においてソフト指しが嫌われていることからもわかる。ソフト指しとは将棋ソフトの最善手を元に指すことで、どうもこれはカンニング、チートとされているようだ。疑惑をかけられた棋士が竜王戦の資格を奪われるなどプロレベルでも嫌われる行為のようだ。

ソフト差しはオンライン将棋では禁止されていたり対策がされていたりするようだがその理由は一体なんなのだろうか?ここに将棋最大の矛盾がある。単に強い相手とやりたいのであればソフトは大歓迎だろう。だが現実にはミスが少ないことは称賛されるがミスをしないことは嫌悪される。それは、人間であれば絶対に間違えるという前提で相手のミスを期待しているからだ。ミスをしないわけがない人間が完璧であればそれはおかしいと非難する。藤井二冠はAIとの一致率が高いと称賛されるがそれは彼がAIのような手を指していることに他ならないわけであるが将棋ソフトより弱く間違えることも多いため受け入れられているのであろう。

つまり、将棋において強すぎるということは悪なのだ。強いことは認められない。それは、ソフト指しであっても適度に弱いAIとの対戦ならば楽しめるということになる。昔の将棋ソフトがそうだ。人間将棋とは相手のミスをいかにつくことができるかという粗の探し合いなのだ。ミスをしないコンピューター相手では成立しない。将棋の解析が終わっても人間が全ての手順を暗記したり評価関数を計算して最善手を指すといったことは不可能なので遊びとしては残るかもしれない。相手のミスをつくのにも手順がある。相手の失敗を待ちそれにつけこむゲームだ。ソフト指しはクイズ大会にスマホ検索をしながら参加するようなものと思えばずるいという気持ちはわかる。将棋には正解があり調べれば簡単にわかるがそれをやってはいけないということか。

スポーツではドーピングが禁止されているがそれは公平性や後遺症の問題があるからで競技レベルを下げるためではない。対人将棋でAIを禁止するのは「強くてずるい」からで要は足の引っ張り合いだ。人間が行う最強対決を見たいのであれば棋士にPCを持たせて独自AIを研究させ競わせるほうがよい。コンピューターに正解を示されてしまった今では棋士に強さは存在しない。将来的に全手順が解明されれば棋士は出題範囲が将棋に限定されたクイズ王のようなものになるだろう。スポンサーがいて見世物にできているうちはいいが飽きられてプロ棋士という職業がなくなってしまう日も近いかもしれない。

強さを捨て去って人間がやるということに意味を見出す向きもあるかもしれない。たとえばけん玉ロボがすごい技をやるのと人間がやるのとでは印象が違うだろう。人間の限界に挑戦するという意義だ。だが計算問題でどんなに人間が頑張ってもびっくりすご技人間止まりでコンピューターの足元にも及ばない。物理法則が適用され偶然性のある現実世界であれば速さ正確さは称賛されるが将棋盤と駒さえあればできる将棋はそうではない。脳内や画面内に盤面を用意すれば現実世界と切り離すことすら可能で将棋はデジタルと相性がいい。見世物としてサーカスがあるが将棋は頭の中で繰り広げられるサーカスに近いのではないか。

複雑な動作や高い技術が求められる競技性。自分や他者の状態、道具や気候による偶然性。一瞬の遅れが命取りになるタイミング。最高同士がぶつかり合う競技レベル。人気のゲームはどの要素も持っている。将棋にはタイミングもなければ偶然性もない。ただ限られた選択肢を選び続けるという競技性の低いゲームでさらに競技レベルを下げるためにコンピューターの利用も禁止している。正解を知っている観戦者が俯瞰する中で正解を知らない者同士が間違えて間違えてその間違いをお互いに攻めあう。こうなると将棋の面白さとは棋士の変人話、対決までにあるストーリー性、ドラマ性、物語など競技以外の部分にあるのではないか。将棋を題材にしたリアリティーショーと考えれば確かにそれはエンターテイメントかもしれない。

競技性とタイミングは将棋の根本なので変えられないが公平性を保ちながら競技レベルを上げたいのであれば両者が同じAIによる最善手を参照しながら指せばいい。最初の成りはコインを投げて表なら可などとすれば偶然性も得られる。だが恐らく将棋にそういったゲーム性を求める人はいないだろう。将棋はゲームではなくコミュニケーションツールと割り切れば現在の形でよいのかもしれない。その分野であればポーカーや麻雀が人気である。多人数用ではあるがどちらもテーブルゲームで人間はAIに負けるのも共通だ。だがそれらには偶然性がありつつ統計的には腕の差も反映されるので娯楽性が高い。技術に感心して偶然性に興奮する、この二つが面白いゲームの要素なのかもしれない。

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