2020年5月1日金曜日

「頑張ろう」は誰のため?その向こうに相手はいるのか

新型コロナによる影響で自粛が続く中で芸能人やスポーツ選手が「頑張りましょう」と呼びかける動画をメディアが盛んに報じているが私はこんなに無責任な言葉はないと思っている。彼らが内輪で勝手にやっている分にはいいがそれを連日報道するのには違和感がある。状況のわからない相手にネームバリューを使って一方的に呼びかけるのはただ自己承認欲求を満たしたいだけなのではないか。

生きることは戦いだ。頑張っていない人などいるだろうか?みんなそれぞれやらなければならないこと、やりたいこと、やりたくないことがあってできることを必死でやっているだろう。そして困った人が陥ってしまうのは「何をどう頑張ったらいいかわからない」という状態だ。不登校であれうつ病であれ理由があって頑張れなくなってしまうのだ。漠然とした不安のある時に対象や目的もわからず「頑張りましょう」と言われてもそれは励ましの言葉ではなく押し付けだ。

医療従事者への拍手もそうだ。頑張っている人たちを称えられる自分って素晴らしいという自己陶酔が隠しきれていない。責任のある立場の人なら拍手はいいから物資をくれ、金を出せ、外に出るなと思うことだろう。いつも以上に忙しく仕事をしていただけなのに見知らぬ人から拍手喝采を浴びても感染の危険が減るわけでもないし仕事が楽になるわけでもない。相手が求めているものではなく自分がやって気持ちいことを一方的に行うという点でこれも行為の押し付けだ。

「頑張れ」と「頑張ろう」は使うべき時が違う。仕事や学業やスポーツの応援で相手だけが頑張る時には「頑張って」、相手と自分が同じ目標に向けて共に努力している時には「頑張ろう」となる。仕事をなくし暇になった(ただしお金はある)有名人が家で見知らぬ誰かに向かって「頑張りましょう」と言うのはファンならば嬉しいかもしれないが、働かなければならない人たちに対して自宅のリビングからさも自分も何かを頑張っているかのように話しかけるのはどうなのか。「休めない立場のみなさん、頑張ってください」であれば応援として伝わるかもしれないが主語のない「頑張りましょう」では何を言いたいのかわからない。

お金のあり余っている人たちなら下々の者たちと戯れる遊びとしていいのかもしれない。だが稼ぎが少なく蓄えもあまりない売れていない芸能人やぎりぎりプロでやれているスポーツ選手がそんなことをやっていていいのか?「そのうち再開するだろう」「また稼げるようになる」と希望的観測の元でそんな動画をとっているとしたらおめでたいことだ。プロスポーツで破産するチームが出てくるかもしれないし広告主や興行主が減って業界自体のパイが縮小するかもしれない。はっきり売名行為としてやっているならいいが危機に便乗して善人を装った上での売名であればそれは火事場泥棒と一緒だ。

合理的に考えればこんな時にかけるべき言葉は主体や対象のない「頑張ろう」ではない。休めない人なら「気を付けて働きましょう」か「休んでください」、自粛中であれば「気を付けて働いでください」か「休みましょう」と自分と相手の立場を考慮した上でできることを確かめることだろう。自粛している人に頑張ろうと言っても「何を」という主語がなく届かないし、休めない人に休めと言っても意味がない。

世の中には働く場所もなくなり休もうにもお金がない、どちらも奪われてしまっている人もいるのだ。何をどうしたらいいかわからない状態だ。頑張れる機会を奪われてしまった人たちに家でくつろいでいる人が「頑張りましょう」などと言うのは残酷ですらある。「頑張れなくなった人たち」に必要なのは励ましや慰めではなく金銭的なサポートだ。「頼ってください」と言えるなら立派だが安全なところから無責任に「頑張ろう」なんて言えるのは相手を慮れない人間だ。困窮している人たちを助けるのは具体的な行動であって曖昧な言葉ではない。

お金と善意、両方持っているなら好きなように人助けすればいい。病院に寄付してもいいし困っている人をサポートしてもいい。口だけ出してお金は出さないのならそれは単なる売名行為で目立ちたいだけだ。お金を出したくないなら黙っていたほうがよい。自粛を呼びかけながら遊んで回ったり、家にいてと言いながら仕事に出かけたり、言行不一致で募るのは不信感であるが信頼のない相手の言葉に耳を傾ける人は少ないだろう。

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