2018年10月28日日曜日

自己責任論とその反論 どちらも間違っている

シリアの武装勢力に拘束されていたフリージャーナリストの安田純平さんが解放されたことで危険な場所に自ら赴いた彼に対して自己責任という批判が高まっているが、この「自己責任論」もそれに対するマスメディアや著名人の反論も論調自体が間違っている。暴論に暴論で返しても水掛け論にしかならない。法治国家と過失相殺という二つの言葉から考えてみたい。

外国の危険地域へ行って被害にあうケースに限らず日本では自己責任と責められるケースは多い。病気や貧困さえ自己責任とされることがある。だがこの「自己責任論」は根本的に間違っている。論ずるに値しないのだ。ジャーナリズムの大義名分などと擁護する反論者も的外れだ。自己責任論をわかりやすく言うと「被害者に落ち度がある場合助けなくてよい」というものだ。こんなものがまかり通ったら日本は法治国家ではなくなる。

被害者は誰であれ救済されるべきで落ち度があったから助けないとなればそれは弱者の選別となり差別そのものである。自己責任論を国内で適用してみよう。急に飛び出したり赤信号を無視して車に轢かれた被害者は自己責任なので助けなくてよい。夜道を出歩いて性被害にあった被害者は自己責任なので助けなくてよい。鍵をかけずに空き巣に入られた被害者は自己責任なので助けなくてよい。そんなことがあるわけがない。日本は法治国家であるはずだ。被害者に落ち度があれば救済しないという法律があれば別だがたとえそんなものがあったとしてもその法律自体が恐らく人権侵害になるので憲法で人権が保障されている限りそれは無効となるだろう。

被害者はどのような状況で被害にあったとしても助けられるべきである。これは大原則だ。巷に氾濫する自己責任論はこの前提を覆そうとしている、つまり法治国家に挑戦しようとしている恐ろしいものだ。ただこんなものが蔓延してしまう理由は多くの日本人が法律に関して無知なことにあると思う。一応日本は法治国家を名乗っているがそれは名ばかりで実際は感情やコミュニティの論理を優先させ私刑が許されているような土壌があるように感じる。

そもそも日本は先進国の中では遵法精神が低いように思う。悪法は変えるべきだがだからといって悪法を守らなくてよいということはない。労働基準法と道路交通法という二つに限れば日本は完全に無法地帯だ。労働時間や最低時給、有給取得など違法労働させられている人は多い。最近はこれに外国人も加わっている。道路に出れば法定速度など実際には存在していないように自動車がスピードを出している。法定速度が遅いなら速くすればいいのだが立法府の怠慢で違法状態が続いている。後部座席のシートベルトもいまだにしない人がいる。外国人と離婚して子を連れ去り国際手配される日本人もいる。大企業の不祥事が頻発しているのも法と実態が乖離して企業の論理が優先された結果だ。

自己責任論それ自体は間違っているが、では被害者の落ち度については考えなくともよいのか?そこで登場するのが過失相殺という概念だ。これは被害者に落ち度、つまり過失があった場合それは損害賠償額から減額されるという考え方で、民事裁判で多く使われている。これは当然の考え方だろう。過失相殺がなければモラルハザードが起きて保険会社が困る。当たり屋でも慰謝料をもらえるので事故が増える。こういった問題の抑止力とするためにも過失相殺は必要だ。

では安田純平さんのケースならどう考えたらよいか。損害賠償があるとすれば請求するのは国家で、請求先は安田さんとなるだろうが国家が個人にかかった費用を請求することは通常ありえない。まず根拠となる法が必要で、これを作るのは立法府の仕事だ。例えば渡航自粛勧告が出ている地域で誘拐にあった場合、交渉にかかった費用の一部を限度額を設けて請求するといったものがあればその負担の可能性を受け入れるのは自己責任と言えるだろう。パスポートの発行に制限をかけたり出国制限をするのも公共の利益にかなうなら許されるだろう。

自己責任論が噴出するのはそれを律する法律がないからだ。きちんと法整備がされていればこういった不満は出にくい。つまり行政に不満があるから私刑の代わりに個人を糾弾してしまうのだ。そして行政が行動できないのは法律がないからで、その法律を作るのは国会議員の仕事だ。事前に法律があり過失によるパスポートの発行制限や費用の請求などペナルティーが明記されていればこれほど個人が叩かれることはなかっただろう。批判すべきは仕事をしなかった国会議員たちだ。

英語にも自己責任という言葉はある。「at you own risk」がそれで、自己の責任においてという意味だ。ただしこれは過失相殺に関連するもので、責任を負わされる側が訴追リスクを恐れて警告するためのものだ。スカイダイビングなど危険なスポーツをする際には失敗しても訴訟を起こさせないために権利放棄をさせる。被害にあっても権利を行使しない、というのが正しい意味での自己責任だ。金融商品やエクストリームスポーツならAYORが通じるが、犯罪被害者にそんなことを言うのはナンセンスだ。好きで被害にあった人などいない。被害者の保護と過失相殺は分けて考えるべきなのだ。

自己責任論がもてはやされるのは法律への無知からくる遵法精神の欠如とコミュニティの論理を優先させる同調圧力の強さがあるからだろう。ただしたとえ被害者でも落ち度があればそれは考慮されるべきで過失相殺をしなければモラルハザードを招く。被害者の保護と被害者の落ち度は個別に考えるべきで落ち度があれば助けなくてもよいなどということはあってはならない。問題があるならそれは抑止力となる法律を作ってこなかった国会議員だ。法の支配、過失相殺、正しい意味での自己責任、それらをきちんと理解していれば自己責任論のおかしさがよくわかるだろう。

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