2017年9月1日金曜日

差別を助長する逆差別 やりすぎたオバマの反動

バージニア州のシャーロッツビルで南北戦争時に奴隷制度を擁護していたリー将軍の銅像を撤去することに反対する集会があり、そこへ白人至上主義に反対する団体がなだれ込んで衝突が発生した。これを機にマスコミのトランプ叩きが一層激しくなったがこうなっている原因はトランプではなく今起きているのは反動だ。偏った思想でオバマに追随したマスコミに理解できないのも無理はないがオバマはやりすぎたのだ。

オバマを悪く言う人はあまりいないがこれはオバマが人道的に正しいとされるようなことを多くやってきたからだろう。だがどんな人間にもいい面と悪い面があり一方的な善や悪というようなものは存在しない。弱者の保護は裏を返せば強者への冷遇でありこれを逆差別と思う人がいてもおかしくない。弱者の排斥は許さないが強者には何をしても許されるという偏った思想がオバマ政策からは見て取れた。

逆にマスコミがトランプを好意的に報道しているのを見たことがない。トランプ大統領は白人至上主義者を擁護していないしあそこにいた人間全てが白人至上主義者というわけではない。集会の目的は当時奴隷制度を擁護していたリー将軍の銅像撤去に反対するためであって白人至上主義を主張するためではなかった。あのジョージ・ワシントンも黒人奴隷農場主で奴隷を使っていた。そういう時代であったのでその時代の人物が現代人とは違う価値観を持っていたとしてもそれはおかしなことではない。今になって銅像撤去という極端な動きが出てきたのは歴史修正主義と言われても仕方ない。

そもそも無許可のデモは啓蒙活動ではない。一部の過激なトランプ支持者だけでなく一部の過激な反トランプの抗議活動家も毎回のように逮捕者を出しているが逮捕者が出るのは暴動だ。一方の平等を叫びながら他方の不平等を推奨する。多様性を叫びながら多様な価値観を認めない。反トランプ運動で透けて見えるのは寛容を訴える者が一番不寛容ということだ。だがいくら主義主張に正義や大義があっても「正しい」を免罪符にした暴力は許されない。

現在の状況はメディアの偏向報道とオバマ前大統領の政策が根底にある。トランプ大統領が誕生してから騒いでいるのは極左に近くトランプは右寄りだが中道的である。オバマは極左だったのかもしれない。右翼と左翼は反対だがどちらも同じだけずれている。自由と平等どちらが大事かということだ。右翼は自分を守る自由、左翼は全員の平等にこだわり過ぎているのだ。どちらもバランスを欠けばおかしくなる。声の大きい活動家の多くは自分に酔っているだけで相手を尊重しない。

国家として当たり前の自国第一主義を批判したりトランプが白人を優遇しているなどと根拠もなくマスコミは言うが彼らはまず報道しない自由で偏向報道している自分たちを省みて左に寄り過ぎた価値観を修正すべきだ。KKKや白人至上主義を批判するならアンティファやブラック・ライヴズ・マターも同様に批判しなければ整合性が取れない。あさま山荘事件や山岳ベース事件からもわかる通り行き過ぎれば右翼であれ左翼であれおかしくなってしまうのだ。

オバマ政策を振り返ってみるとLGBTQの権利向上や不法入国者の保護、イスラムとの融和や銃規制など弱者救済に主眼を置いていたことがわかる。アファーマティブアクションやポリティカルコレクトネスといった運動が高まったのもオバマ政権の姿勢が影響していたのかもしれない。差別というのは通常弱者の排斥を指す。それを是正するという名目で弱者の保護政策が取られているが保護と排斥でベクトルは違えども特定の層に肩入れするのは差別にはあたらないのか?

弱者とされる人たちを優遇することが結果的に強者とされる人たちへの逆差別となり相対的に損をしたという感情が差別を生み出す負の連鎖となっている。そう考えることはできないか。それがたとえ非差別者だとしても特定の層を優遇することは結果的にそれらの層を攻撃する口実になっているのではないか。単純に排斥は悪、保護は善としてしまってよいのか。白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しきという政治批判の狂歌があるが崇高な理念ありきで「正しい」とされることだけをし続けられるのも庶民には息苦しい。

アメリカでは原住民のためにインディアン保留地というものがある。そこに税金が使われている。日本では立場は少し違うが在日政策に近いものだ。被差別階級を保護することはそうでない人たちから見れば搾取にも思える。差別があってはならないが差別をなくすためとされる政策が逆差別となり偏見を助長しているとは言えないか。身近なことで言えば日本ではビジネス的には女性優遇が当たり前とされている。レディースデイや女性専用車両以外でも大学入試で下駄をはかせたり親権や社会進出など機会でなく結果の平等を強いるような政策が当たり前にある。

差別=排斥がいけないのはそれが治安の悪化につながるからだがでは優遇はいいのか?法は行動を規制しても思想は規制せず善悪を示すものではない。言論の自由と思想の自由がある限り法はそこには踏み込めない。思想の規制とは洗脳に他ならないからだ。法があるのは治安を維持するためで善悪を決めるためではない。殺人が許されてしまえば人々は生活できない。それは殺す自由があれば殺される不安も一緒についてくるからだ。だが殺人を規制する法は殺人を悪と決めるものではない。法は行動を規制するが価値観を規定し思想を縛るものではないからだ。盗みをしてはいけないが盗みが悪かどうかは個々人の価値観による。法は盗んではいけないと決めることができるが盗みは悪いことかどうかには言及しない。盗みは別に悪いことではないと思う分にはそれは自由なのだ。法とモラルは別問題でだからこそ抜け道が見つかったり悪法というようなものが生まれたりする。

何事も押しつけは反発を生む。左翼的価値観を持つことは自由だがならば右翼的価値観を持つこともまた自由なのだ。政策という形で価値観を押し付けることは少なからずあるがオバマのようにやりすぎてしまえばそれは反発を生む。日本でオバマ的な極左政策が実行されたらと大げさに考えてみよう。性的少数者を保護するために全ての性別欄に男女の他に「その他」と表示することを義務付ける(トランスジェンダーのトイレ問題は実際にアメリカで揉めている)。立場の弱い女性のために女性の給与を法律で男性の1.5倍とする。難民を積極的に受け入れ保護するために消費税を20%に引き上げて財源とする。これほど極端ではないがこんな類のことがオバマ政権下では行われてきたのだ。

弱者優遇のためにならいくらでも自分を犠牲にしてもいいというような人たちにとってはそれらは素晴らしい政策かもしれないがそこまでしていては自分たちの身が持たないと思うような人たちがそういった政策を目の当たりにすれば反感を持つのは自然なことだ。弱者は保護して強者は冷遇しろという思想を持つのは自由だ。だがそういった思想を持たない人たちを逆差別する権利は誰にもない。

特定の層を保護するためにそうでない層を排斥するのは真の平等と言えるのか?その政策は被差別を名目したただの既得権益になっていないか?差別がなくなれば保護政策も廃止するのか?盲目的にトランプ批判を繰り返す前に考えるべきことがあるのではないか。私にはマスメディアがトランプ叩きをするのはあえて敵を作り対立をあおっているようにしか見えない。有権者はそれに流されずもっとバランス感覚を磨くべきだろう。

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